安田財閥

財閥解体


財閥の解体と再結集
安田財閥再結集せず、富士銀行の成長戦略・・
 三菱・住友財閥は財閥解体後、再結集を目論み、一九五〇年代には都市銀行を中心に企業集団として再発足した。しかし安田財閥では、中核企業の安田銀行が全く別の道を選んだ。すなわち、安田財閥の再結集(=安田グループの形成)ではなく、自らを中心とした企業集団・芙蓉グループの形成であった(芙蓉とは富士山の別称)。
 一九四八年、安田銀行は金融機関再整備にともない、富士銀行に改称した。一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効により、財閥称号・商標の使用禁止が廃止され、旧財閥系都市銀行が相次いで旧称に復帰する中富士銀行は改称を行わず、安田財閥からの脱却をアピールした(同時期、大阪銀行は住友銀行に、千代田銀行は三菱銀行に復帰した)。富士銀行は圧倒的な店舗数を背景に大衆預金を集め、終戦直後は市中銀行トップであり、改称後は「カラコロ富士(下駄履きで行ける大衆銀行)」と標して敷の高い三大財閥系銀行との差別化に成功した。
しかし、一九五〇年代になると、三菱・住友グループが再結集し、三菱銀行、住友銀行が首位の富士銀行の追撃を始めた。三菱・住友グループには重化学工業分野に数多くの優良企業があり、両行は盤石な取引基盤を持っていた。一方、旧安田財閥には事業部門に優良企業がなく、富士銀行は劣勢を強いられた。そこで富士銀行は三菱銀行・三井銀行との競争に打ち勝つ戦略的構想練った。それが「経済主流取引」である。
 「経済主流取引」とは、その時々の経済状勢において、主流を成すと思われる経済主体との取引を強化することである。富士銀行は「経済主流取引」戦略に沿って優良企業を選別し、そのメインバンクになっていった。たとえば、浅野財閥(第五章、日本鉄管、日本セメント)や大倉財閥(大成建設)、日産コンツェルン(第十五章、日産自動車、日本油脂、日本冷蔵)や森コンツェルン(昭和電工)などの有力企業である。これら企業がのちに芙蓉グループの中核メンバーになっていく。

芙蓉懇談会、芙蓉会の結成
一九六四年十二月、芙蓉開発が中心となり、グループ二二社の営業担当役員が一堂に会して「芙蓉懇談
会」を開催した。その目的は、各社の従業員ならびに、家族に各社製品を認識し愛用してもらうというグループ
内マーケットの確保と販売拡大であり、芙蓉グループ各社間の取引を拡大することにあった。
さらに、一九六六年一月には社長会「芙蓉会」を結成した。そのメンバーは、安田財閥の系譜を引く富士銀
行、安田信託銀行、安田火災海上保険、安田生命保険、東京建物、浅野財閥の日本鋼管、日本セメン
ト、沖電気工業、日本精工、昭和海運、大倉財閥の大成建設、大倉商事(のちに退会)、森コンツェルンの
昭和電工、日産コンツェルンの日立製作所、日産自動車、日本冷蔵、日本油脂、根津系の東武鉄道、日
精紡績、日精製粉、サッポロビール、その他に丸紅飯田、東亜燃料工業などである。